小説
月が狼に恋をした夜

-序章-
その暗い灰色の毛皮をまとった生き物は、風のように深淵を思わせる濃い森の中を駆け抜けていた。
闇の中にまぎれたその生き物には、力強い生命力があった。
走る度にもれる呼気も、飛び散る汗も、大地を穿つ力強い足も、全てが神々しいほど輝いて見えた。

満月の夜は森に入ってはいけない。
月の乙女があなたを攫ってしまうから。
新月の夜は森に入ってはいけない。
森の古狼があなたを攫ってしまうから。


小波のようなリズムが耳に響いていた。それは、私の心を優しく、優しく揺さぶる。
私はその音に導かれるように、ゆっくりと静かに眼を覚ました。
そこはうっそうとした緑で埋め尽くされていた。昼間か、夕暮れか…
巨大に育った木々が、あたりを暗い光で満たしてそれさえもわからない。
「え、ええっと…私の名前は、ユディシティラ…そうそう、ユディシティラよ…」
言葉に出さないと、自分の存在さえもとてもあやふやなものに思えるような静けさだった。あたりを見回しても、木、木、木…木ばかりである…。
「で、どうしてここにいるんだっけ…」
ユディシティラは、自分の置かれた奇妙な境遇を洗い出すように考え込んだ。即刻ここから立ち去りたかったが、現在位置を確かめもせず、動き回る無謀な真似はしたくなかった。
「昨日の夜…、誰かに追いかけられて森に…逃げ込んだような…そう、この森…に…!」
ユディシティラの体を冷たいものが流れた。自分がなぜここにいるのか、なんとなくわかったのだ。
「そうよ、そこで狼にあったのよ…その後は覚えてないけど……。私…狼に攫われたんだわ…昨日は新月だったもの…伝説って…本当だったんだ…」
ユディシティラがそうつぶやいた瞬間、風が木々を揺らし、激しく葉が鳴った。
葉の揺れる様子をみながら、ユディシティラは、これが自分を覚醒させた音だったのかとふと思った。
暖かい音だ。好きな音かもしれない。
よくみると、葉達の間から光が漏れていた。薄く淡いその光に、暖かさを感じた。
その葉ずれを聞いているだけで、気持ちが落ち着いていく。ユディシティラは絡まった記憶の糸をほぐそうと真剣に頭を巡らせる事にした。

「軽い記憶障害かな…」
名前、ここに追いかけられてきたこと、狼に出会ったこと。記憶が混乱しているのか、どうしてもそれ以外のことを明確に思い出せない。
「自分のこと名前以外忘れちゃってんのはなんだけど、いろいろと生きるための知識は覚えてるらしいし…まぁ、なんとかなるわよ。」
ユディシティラは深く悩むのをやめることにした。どうやら自分は、楽天的らしい。一つ自分のことを思い出したような気分になって、ユディシティラは少しだけ機嫌がよくなった。
「お腹すいたわね…ひとまず、食料探そうかな…落ち込んでいても仕方ないし!」
一人だと独り言が多くなるって本当なのね…、そんなのんきな事を考えつつ、ユディシティラは立ち上がった。その瞬間、ユディシティラは視線を感じた。

…誰かが、見ている。
ユディシティラは注意深くあたりを見回し、やっとのことで木陰に佇む一人の青年を見つけた。
その青年は、たくましい体をしていた。でも、余分な肉を感じさせない均整の取れた体だ。
浅黒い肌に、深い闇のような黒髪。鋭く威嚇するような瞳で彼はユディシティラを見ていた。
「は、ハーイ…わ、私、ユディシティラ、あなたは?」
沈黙。
私は馬鹿だ。相手は、威嚇の眼をしているのになんて間抜けな質問をしたものだろう。
だいたい、ここになぜ人がいる?…彼こそは自分を攫った狼ではないのか?
ユディシティラは思った。考えてみれば、自分は狼に攫われたと知っていたのだから、まずは逃げるべきだったのだ。何をのんきに哲学していたんだろう…。
考えれば考えるほど自分の間抜けさや、これからどうなるのかという恐れが頭をぐるぐる回り、ユディシティラは軽いパニックに陥った。
今すぐ駆け出して逃げなきゃと心は思っているのに、ユディシティラの体は、眼をきょろきょろさせ、しきりに左手で髪をすくい、口をもごもごと動かすだけだった。
「腹が減っておかしくなったのか」
狼が、もとい人狼が口を開いた。その声は、普通の人間と同じだった。
ユディシティラが驚きの連続で呆けているうちに、彼はてきぱきと動き出した。彼はまきを集めているみたいだった。まき、火、丸焼き…
ユディシティラは恐ろしくなって、悲鳴をあげた。
「お、狼さん…私を食べちゃうつもり?火あぶりはあまりに残酷だわっ!」
彼は非難の目をユディシティラに向け、呆れを隠さずにつぶやいた。
「俺は狼じゃない、見てわかるだろう、人間だ。馬鹿か、お前。」
よく見ると、彼の腰にはウサギが二羽つるされていた。
「えっ…だって、あな、あなたは…伝説の狼なんでしょ?」
ユディシティラは混乱した頭をどうにか元に戻そうと、必死だった。
彼は面倒くさそうに、ユディシティラに一瞥をくれ、無造作にウサギを地面に置いた。
「だから人間だって言ってるだろ?」
ユディシティラは、しばらく立ち尽くして考え込んだ。落ち着いて見てみると確かに彼は人間だ。今おこそうとしている火も、ウサギを焼くためのものだろう。自分の眼から見て、人間ではないと思わせる所なんて一つもない。じゃぁ、どうしてこんなに私の心は騒ぐのだろう。ユディシティラは落ち着かない気分になって、彼に尋ねた。
「ねぇ、あなたは狼じゃないの…本当に…?」
彼は、大きなため息をつくと言った。
「俺はアルジュナ。どこをどうとっても立派な人間だ。」

その日、私は生まれて初めてウサギを食べた(と思う。思い出せないけど)
アルジュナは無愛想で、私に笑いかけたり、話し掛けてなんてくれなかった。食事の時も私が会話の糸口を探そうと頑張って話し続けても、そのたびに「そうか」の一言で片付けられてしまった。
でも、私はそれでもいいや、って思った。倒れている私を見つけて、生き倒れと解釈、食事を調達してきてくれた(…に違いない)。最初会ったときに、威嚇していたように見えたのは、起き上がるはずでない私がピンピンしていたのに驚いただけ(…に違いない!)。そう、アルジュナは優しい(…に違いない!!)。
この森の中、アルジュナの側を離れたら、私はきっと生きていけない。これからしばらくアルジュナを頼りに生きていくんだから、少しのことは目をつぶらないと。アルジュナがこの森に住んでいるのか、この森から抜け出そうとしているのか何もかもわからないけど、一人でいるよりはまし。
でも…森に寝転がって寝るのはあんまりだわ。無用心というか、不衛生というか…それに…お風呂…着替え……考えるだけでめまいがする…。
いろいろ考えなきゃいけないこと山ほどあるけど…明日にしよう…。人生、なるようにしかならないわよ。
その瞬間、私はあっさり意識を手放した…。

それが、ユディシティラとアルジュナの出会いだった。


TO BE CONTINUED.....>>>NEXT


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